トム・ホランド版スパイダーマンが映画館に帰ってきました!
私はMCUシリーズを観始めたのが遅く、本作で初めてスパイダーマンを映画館で鑑賞することができました。
歴代シリーズの知識もあまり持ち合わせていないので、ちょっと今回は「クィア」という切り口からこの映画について考察することに。
今作を、ピーター・パーカーの「自己受容」と「カミングアウト」の物語として読み解いてみました。
(トップ画像:引用https://www.facebook.com/deadline)
あらすじ:『ノー・ウェイ・ホーム』から4年後の物語

トム・ホランド版スパイダーマン第四作目となる本作は『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』から4年後を描く。
世界を救うため、自分という存在をすべての人の記憶から消したピーター・パーカー(トム・ホランド)。
恋人MJ(ゼンデイヤ)も、親友ネッド(ジェイコブ・バタロン)もピーターのことを覚えていない。
それでもピーターはスパイダーマンとしてニューヨークを守り続けていた。
そんな彼の前にあらわれたのは、人から人へ精神を乗り移らせる能力を持つ謎の敵。
そしてピーター自身にも新たな身体変異が起こり始める…

監督は『シャン・チー/テン・リングスの伝説』のデスティン・ダニエル・クレットン。
マーク・ラファロ、フローレンス・ピューら演じるお馴染みのMCUキャラクターも登場します。
■『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』から4年後…(管理人編)
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『ブランド・ニュー・デイ』は、クィア映画なのか?
最初に断っておきたいのですが、私はこの映画を「クィア映画」だと思っているわけではなく、またそう主張したいわけでもありません。
ただ、クィアという補助線を引いてみると、意外にも映画の様々な要素が腑に落ちることがわかります。

能力を抑え込むこと。本当の自分を知られないこと。「普通」であろうと努力すること。そして、自分を受け入れること。
これらはヒーロー映画ではよくあるモチーフではあります。
しかし本作では、それらが単なる能力バトルではなく、「自分は何者なのか」というアイデンティティの物語として強く結びついているように感じました。
そういう意味で、この作品を「カミングアウト」の物語として断定はできなくても、「カミングアウトの物語として読むことのできる作品」だと思います。
なぜ、『アナと雪の女王』を思い出すのか
本作を観て私が思い出したのは『アナと雪の女王』です。
もちろん描かれる能力もストーリーはまったく違うのですが、構造はとても似ています。
エルサは自らの能力そのものに苦しんでいたわけではありませんでした。
―エルサとピーターに共通する”孤独”

「誰かを傷つけるくらいなら、一人で生きたほうがいい」という思い込みから、自分を閉じ込めていました。
そんなエルサの姿勢はLet it goの歌詞”Conceal, Don’t feel.”(隠しなさい、感じてはいけない)にも表れています。
本作のピーターもまた「誰かを守るため、責任を果たすためには孤独でいなければならない」と思い込んでいるように見えます。
しかし、実際にはこの4年間の間に彼には新しく築いた人間関係があることがわかります。
デウルフ刑事、パニッシャー、エレーナ、ブルース・バナー博士…と客観的に見れば、ピーターは決して一人ではありません。
それでも彼が孤独なのは、「ピーター・パーカー」を知る人がいないからです。
エルサは自ら建てた氷の城に閉じこもりますが、本作で繰り返し登場する「メイ叔母さんのいる部屋のイメージ」はそれ自体がピーターにとっての「クローゼット」にも見えます。
「本当の自分を知って、受け入れてくれる人がいない」という孤独こそが本作のピーターを苦しめていたのだと思います。
「インヒビター(抑制装置)」が意味するものは?
―「能力」ではなく「本当の自分を隠す装置」
そう考えると本作で気になるモチーフはインヒビターです。
突如暴走し始めたピーターの能力を抑え込むための装置です。
能力を制御できない状態ではピーターの目はクモのように真っ黒に染まり、感覚(特に聴覚?)は異常なほどに鋭くなってしまいます。
これは一見すると「ピーターのクモ化が高まる」という設定と感じられるのですが、クィア的な読みだと「世界が痛く感じられる」という風にとらえられるのかなと思いました。
周囲の視線や音や刺激といった、普段なら気にならないものが痛いほど気になってしまう。

これはクィアをはじめとするマイノリティの経験とも重なる感覚ではないでしょうか。
だからこそ、ピーターの身に起こる変異は「普通でいられなくなること」の暗喩として考えられます。
物語終盤、ついにインヒビターはピーターから(そしてハルクからも)外れることになります。
興味深いのは、それがピーターの意志によるものなのか、それとも極限状態で本能が勝った結果だったのかはっきり描かれていないことです。
(私は原作未読なので原作では描かれているのかもしれません)
私はこの曖昧さが好きでした。
「自分らしく生きよう」と決意する瞬間は必ずしも理性的な宣言になることはなく、ただ抑え込んでいたものが抑えきれなくなった、ということも多いはずです。
本作でピーターが開発するインヒビターとは、実のところ、彼の新たな能力を隠すためのものではなく、「本当の自分を隠す装置」であったのかもしれません。
『ブランド・ニュー・デイ』の、本当の意味とは?
―ピーターが”自分”を取り戻した日
鑑賞中、私は「なんか全然ピーターの私生活が見えてこないな…」と少し不満に思っていたのですが、観終わってからこの映画を振り返ってみると、見方が変わってきました。
大学入学~卒業間際までの4年間は、ピーターが「スパイダーマン」としては生きていても、「ピーター・パーカー」としては生きるのが難しかった時間だったのかもしれません。
だから彼の生活感が感じられない。学校にも通ってなさそうだけれどどうやって生計を立てているのかもよくわからない。
そしてなにより彼自身が私生活をあまり大事にしているように見えない。

本作で描かれるのは、卒業を迎える頃になってようやく自分を隠すことをやめ、「自分を知ってもらうことを選び始めるタイミング」なのでしょう。
(映画序盤、エレーナのオフィス?でスーツを脱ぎ、素肌を晒したピーターの姿は、そんなはじめの一歩を表しているのかもしれません。)
その意味で、この映画のタイトルである「Brand New Day」は、「ピーター・パーカーが、もう一度ピーター・パーカーとして生き始める日」なのです。
そしてここでも重なってくるのは『アナと雪の女王』のエルサです。
どちらの作品も「力との向き合い方」を描いているようでいて、本当に描いているのは「自分を受け入れること」なのだと思います。
まとめ:世界が変わったのではない…
―ピーターの、世界の見え方が変わった!

前三部作でピーターはヒーローであることの「責任」を学んできました。
そして本作でようやく「自分自身を大切にすること」を学び始めたのだと思います。
本作の希望あるラストは、世界が突然変わったから起きた奇跡なのではなく、ピーター自身がもう一度世界を信じ、そして自分を信じることを選んだからこそ見えてきた景色だったのではないでしょうか。
『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』は、「責任」の物語を終えたスパイダーマンが、「ピーター・パーカー」という一人の青年として人生を取り戻していく物語でした。



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