今回は、第95回アカデミー賞8部門で9ノミネートされている超話題作『イニシェリン島の精霊』をご紹介します。
本作は第90回アカデミー賞で主演女優賞・助演男優賞を受賞した『スリー・ビルボード』で話題となったマーティン・マクドナー監督の最新作です。
しかしながら、その難解さに、日本では鑑賞後の評価が分かれており、その点でも話題となっています。
ここでは、難解そうに見える本作が伝えたい「シンプルなこと」をお伝えすべく、作品の背景に触れつつ考察していきます。
(冒頭画像:引用https://www.facebook.com/BansheesMovie/)
「いい奴のことはみんな忘れる」:あらすじ
アイルランドの孤島・イニシェリン島は本土の目と鼻の先にある小さな島。
島民全員が顔見知りの平和な島だ。
ある日、パードリック(コリン・ファレル)は長年の友人コルム(ブレンダン・グリーソン)から突然絶縁を告げられてしまう。
理由を聞いても納得のいかないパードリックは、コルムに執拗に迫ってしまう。
するとコルムから「これ以上自分に関わると自分の指を切り落とす」と言われてしまう…
「アイルランド」を知っていますか?
本作の舞台となっているアイルランドは、日本人にはあまりなじみがないかもしれません。
個人的には、ダブリンを街中にはじめ、アイリッシュダンスや音楽といった様々な芸術を世界に発信してきた国だと認識しています。
一方で、「北アイルランド問題」といった紛争問題を抱えている国としても知られています。
これは映画『ベルファスト』でも描かれるアイルランドが抱える大きな問題です。
本作はケネス・ブラナー監督も明言しているように、こうした紛争や内戦を”隣人同士”で表現しているのです。
では、その表現を理解するために、アイルランドをめぐる政治情勢を少しだけ覗いてみましょう。
参考記事:『ベルファスト』の歴史背景とあらすじ。北アイルランド出身ブラナー監督の望郷の思いが…
日本人だけが使う「イギリス」
イギリスという呼び方は、実は正式なものではありません。
正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」です。
この連合王国はイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つから成り、そのことはサッカーをはじめとするスポーツで各地域ごとにチームを編成して参加することからも分かります。
また、ユニオンジャックとして知られるイギリスの国旗も、それぞれ地域の国旗をあわせたものなのです。
9世紀以降にイングランドは次々と各地域を併合し、本作に登場するアイルランドも1801年に併合されます。
しかしながら、1900年代になるとアイルランド独立運動が起きるようになり、その中で『イニシェリン島の精霊』劇中の台詞にも登場するIRA(アイルランド共和軍)が登場し、戦いが長期化していくのです。
イギリス政府は最終的に、アイルランド北部を切り離してイギリスの統治下におき、それ以外の南部は自治領としての独立を認める妥協案を提示する形となります。
この不思議な分け方が、内戦の原因を知るヒントなのです。
カトリックとプロテスタントの対立
アイルランド、特に北アイルランドをめぐる内戦の原因は「宗教」です。
お気づきの方も多いと思いますが『イニシェリン島の精霊』では、冒頭から美しいアイルランドの風景の中に登場する十字架やマリア像が頻繁に映し出されます。
実は、アイルランドでは国民の9割がキリスト教を信仰しており、ヨーロッパ随一のキリスト教の国なのです。
キリスト教といっても皆さん、ご存じのようにカトリックとプロテスタントという2つの宗派が存在し、歴史的にみても、プロテスタントは「抵抗者」という意味合いが強く、カトリックと対立関係にあることが多いのが特徴です。
アイルランドの内戦も、プロテスタントの多い北アイルランドを切り離したことで激化していったのです。
あとから派生したプロテスタントをよしとしないカトリックの人たちとの間に、亀裂が生じ、今でも問題は残ったままとなっています。
世界を見れば、こうした宗派の対立による民族紛争は実は数多く存在します。
▼北アイルランド紛争の参考本【管理人・選】
※カトリック系とブロテスタント系という「二つのコミュニティ」を抱えた北アイルランドは、イギリスによる植民地支配の結果が凝縮されるとともに、30年にわたる紛争で社会が著しく分断された「場」でもある。1990年代以降の和平プロセスにおいて、暴力と分断の克服が具体的な課題となる一方、歴史と記憶をめぐる対立や相互不信に根ざす「和解」の難しさがことあるごとに露呈してきた。本書は、イギリスとの連合維持を主張するマジョリティであるユニオニストに焦点をあてながら、不安と恐怖、暴力と対立を生きるなかでのアイデンティティ・ポリティクスを考察し、「社会の共有」への可能性を探る。【引用:Amazon】
イギリスのEU離脱を機に対立再燃?
数年前に話題となったイギリスのEU離脱。
このことは「ブレグジット」と表現されるほど話題となりましたが、実は、このことにより北アイルランド問題が再燃する可能性が高まっています。
今現在、北アイルランドとアイルランドは、イギリスとEUが唯一、国境を接している地域となっています。
EUに加盟していた時に可能だった、ヒトやモノの自由な移動に制限がかかりはじめています。
アイルランドとイギリスは、打開策を引き続き模索しているが、対立が再び深刻化するまでは時間の問題でしょう。
解体して見える「シンプルな構造」
「難解」と言われる作品は、暗喩や隠喩がある作品が多いため、事前に内戦を表現したものである…との情報だけを頭に入れ、筆者は本作を鑑賞しました。
すると、鑑賞後に見えてきたのはとてつもなくシンプルな構造だったのです。
物語の大枠は「ある日突然絶縁された→理由は考え方の変化→近づいたら大事にされてしまう…困った」という流れです。
本当にただこれだけなんです。
そして、これがあらゆる争い…特に内戦の根幹にあるものなのです。
内戦を知るうえで大切な「第三者」
内戦の根幹にあるのは、今まで同じコミュニティで生きてきた人たちがある日突然、敵同士になるという構図です。
この対立は宗教をはじめとする文化による違いではありますが、世界の内戦の多くはルーツを辿れば、同じなのです。
ただ、この作品の面白いところは、パードリックとコルムが起こした“内戦”に巻き込まれる「第三者」の描かれ方です。
イニシェリン島の島民は当初、2人の対立を面白がっていました。
すぐに終わると考えていたのでしょう。
しかし事態が収束に向かう気配はなく、ラストに近づくと島民たちは2人に対して我関せずの状態を保ち始めます。
そうした状態の中で最も印象的なのが、2人の争いを解決しようと貢献していたパードリックの妹シボーン(ケリー・コンドン)です。
彼女が必死に間を取り持ち、停戦を呼びかけますが、意味をなさずあまりの状況に島を出ていく道を選びます。
これは、現実世界での「難民」に近いように思います。
もう一人、注目すべきがドミニク(バリー・コーガン)です。
彼については多くは語られていませんが、おそらく何らかのハンディキャップを抱えた人物として本作では登場しています。
イギリスではかなり早い段階で社会保障・社会福祉などの体制が整えられていますが、そうした中でもドミニクのような人々は差別されてきたようです。
特にひどいのは、差別をこれ見よがしにしているのが警察官である父親だということです。
異質な者を排除しようとする心は、いまも昔も変わらないということでしょう。
また、アイルランドの内戦では警察官なども介入して泥沼になったようなので、それを表現しているのかもしれません。
最終的にドミニクは亡くなってしまいます。
おそらく2人の争いとは直接的には関係ないし、死因も明らかではありませんが、内戦や戦争も思わぬ被害を出しながら拡大していくのです。
まとめ:争いは、こうして起こるー
実際には存在しないアイルランド本土と程近いイニシェリン島。
本土で起こっている内戦のことを馬鹿にしていた登場人物たちが、まったく同じ構図で喧嘩してるのが何よりも恐ろしいです。
そこで効いてくるのがパードリックとコルムの会話に登場する「いい奴のことはみんな忘れる」という会話です。
争いにおいて「優しさ」というのが何も意味をなさないということをストレートに述べています。
核心を突くこの台詞を最後に思い出し、筆者はゾッとしました。
内戦や紛争は世界中で後を絶ちません。
その多くは、小さなことから…ボタンの掛け違いによるものなんです。
どうすれば、争いはなくなるのでしょうか?そんなメッセージを投げかけてくれる名作です。
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